列王上19:1−21/Ⅰペトロ3:13−22/ルカ9:51−62/詩編13:1−6
「主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。」」(列王下19:15)
ポーランドの作家シェンキェヴィチが「クォ・ヴァディス」という歴史小説を書いたのは1895年だそうですが、わたしは1985年頃に女子パウロ会から出版されたマンガの本でそれを知りました。いわゆる少女マンガ風ですが、なかなか良く出来ていると思います。愛読書です。
で、このマンガ作品のほぼ最後の場面で使徒ペトロが「クォ・ヴァディス ドミネ」という言葉を発するのです。これはラテン語で「主よ、あなたはどこへ行かれるのですか」という意味です。
この言葉はヨハネ福音書13章36節からの引用です。「シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」」。13章は洗足の話から始まり、裏切りの予告、わけてもペトロの裏切りをイエスが予告します。その予告の最初が13節です。ペトロはイエスのためにいのちだって捨てると言うのですが、しかしイエスは「今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言っている、これこそ予告です。
「クォ・ヴァディス」物語の中で、ネロ皇帝の迫害の嵐の中でもうローマには導くべき羊がいないと諭されて脱出を決意したペトロのその道行きの途中で、復活のイエスが現れ「あなたがわたしの民をすてるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架につこう。」と言う。その光に打たれたペトロは、今来た道を引き返すのです。「後でついて来ることになる」と言われたイエスの予告がここに実現することになるわけです。
聖書の物語、あるいはその聖書を解釈して生まれたたくさんの物語たちの中には、厳しい現実を逃れる主人公と、その主人公に働きかける神、あるいは主イエスが描かれることが度々あります。神、主と出会った人たちは、厳しい現実へと引き戻されるわけです。
物語の前後関係を知るために今日少し長くお読みいただいた列王記は、預言者エリヤの物語の一部分です。その中心はイスラエルの王アハブとその妻イゼベルの悪行と、それに対抗する預言者エリヤの話です。エリヤとアハブの物語にはこの異国の妻イゼベルが極めて重要な働きをします。
アハブのことは16章にこのように出てきます。「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。」(30-33)。
旧約聖書はヤハウェの道を外れることをすべての失敗の根源として考えています。王を紹介するときに繰り返されるフレーズが「ネバトの子ヤロブアムの罪」です。ヤロブアムは分裂王国時代、北王国の初代王です。彼はその有能さをソロモンから見出され、高官に抜擢されますが、その有能さゆえにソロモンから恐れられ、ついには謀反人として命を狙われる羽目になります。王国分裂後仲間たちは彼を立てて王とするのですが、彼はその才能を遺憾なく発揮し、北王国の基礎を築きました。ところが分裂当時、神殿は当然南王国ユダのエルサレムにある訳で、信仰に熱心な人たちは必ずエルサレム神殿に詣でるのが習慣となっていました。ヤロブアム王はこれに危機感を抱きます。エルサレムに出かけるうちに彼らは南王国シンパになってしまうのではないか。そこで彼は一計を講じて、北王国内に自ら聖所を設けるのです。南王国に近いベテルと北の国境に近いダンの二箇所。そして当然ながら神殿に鎮座する「神の契約の箱」はエルサレムにありますから、その代わりに金の子牛の像を祀った。そして北王国の人々に「もうエルサレムに行く必要はない」と宣言するのです。これが後々まで列王記史家に「ネバトの子ヤロブアムの罪」と称される中味です。
ところがアハブ王はその「ネバトの子ヤロブアムの罪」だけでは飽き足らず、それまでのどの王よりもヤハウェの目から見て最も悪い王であったと言われているのです。その原因の一つ、あるいは旧約信仰から考えれば最も大きな原因は、妻イゼベルにあったと言えます。先週が「女性の働き」であったのに今週は「妻・王妃」が諸悪の根源とされている。皮肉ですね。この後21章になると、あの有名な「ナボトのぶどう畑」の事件が起きます。この事件の首謀者はイゼベルです。事件の結末に列王記記者はこう記します。「アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。」(21:25)。この罪によってアハブとイザベルは破滅へと進んでいきます。
王と王妃の罪によってとばっちりを受けるのが北イスラエルの人々でした。彼らはもちろんすべてが無辜の善人だった訳もなく普通の暮らしをしている普通の人です。王という王が皆「ネバトの子ヤロブアムの罪」を継承したゆえに北イスラエルは早期に滅んだというのが旧約預言者の歴史観です。であれば国民にはとばっちりとしか言いようがありません。ではバアルの預言者とエリヤとが対決する場面で、イスラエルの人々はどちら側についたか。王の圧力があったとはいえバアルの側につくわけです。ナボトを謀殺するときにも、「その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。」(21:11)のです。王の圧力があったとはいえ、正義をおこなうチャンスを彼らは行使できませんでした。
わたしたちはどうでしょう。「わたしはローマへ行ってもう一度十字架につこう。」と主に言わせてしまうのでしょうか。それともわたしたちの道を引き返すでしょうか。あるいはそんなことが可能なのでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。預言者たちが鋭く告発する罪、神さまあなたを離れて自らの欲望の限りを尽くそうとする王と、それに従う住人たちの罪を物語の中に読みながら、しかしわたしたちは自分自身を振り返らざるを得ません。わたしたちも同じなのではないか、と。この国にあってあなたが示す道を進むことは大きな困難が伴います。だからこそ、道で立ち止まり、あるいは引き返す勇気をあなたによって与えられますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。